宮古の風便り

ある宮古島移住者の視点から
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保良ガーの水質検査
保良ガーの全景

 海宝館の下に、湧水がある。 保良(ぼら)ガーである。 
野城ガーの採水のあと保良ガーの湧水の採水をした。 
野城ガーと違ってここは海岸に面した絶壁からコンコンと湧き出しているのである。 
目の前は漠々たる大洋である。 

保良ガーの近景

 ごらんのようにコンクリートで囲まれていて、そのなかに湧水地点があるのだが、豊富な湧水が流れ出ているのがわかる。
この湧水も周辺部落の人々にとっては、大切な生活水であった。
地下ダムの資料館には、当時の保良ガーの写真が残っていて、それを見ると
婦人たちが頭に桶を載せて急な坂道を登っている光景が写っている。
また、農耕馬も水浴びをしている。 
いわば「生活の核」のように大切な場であったのだろう。

 保良ガーを見て思い出したことがある。 ぼくの少年時代のことだが、
やはり生家も100メートルほど離れた井戸水を生活用水としていて、
姉とぼくが水を汲んでくる役割りだった。 
宮古のように頭に桶を載せはしなかったが、オウコとよばれる横木をかつぎその両端に水桶をぶら下げて、
チャポン・チャポンとはねる水面をその歩調で鎮めながらの牛歩だった。 
懐かしい思い出である。 決して負の記憶ではない。


保良ガーの採水ビン

 ここでもやはり50mlの採水ビンに入れて持ち帰った。


| 竹井 章 | 沖縄/宮古島 | 00:00 | comments(0) | - |
野城泉(ヌグスクガー) の水質検査
野城ガーの看板

 宮古島の北東部に浦底(うらぞこ)海岸がある。 古い遺跡が発掘された場所でもある。
その浦底海岸へ下りて行くスロープ道の脇に湧水があリ、野城泉(ヌグスクガー)と呼ばれている。

 野はヌ、城はグスク、泉はガーである。 その説明板が上。 読みやすく大きめの写真にした。
表示文に『降り井』とあるのは、ウリガーと読む。 湧水の地点まで下りて行く形態のガーである。
この湧水の水質試験を毎週1回行っている。 今朝も採水に行って来た。 
どんなに乾期が続こうとどんな大雨の翌日でも、変わることのない透明な湧き水を、いつもコンコンと噴き出している。 


野城ガーの遠景

 これが野城泉(ヌグスクガー)の全景である。 少し右に寄った黒い陰のようにみえるところが、湧き水のあるところである。


野城ガー野城ガーの採水ビン

 中央のトンネルから湧き出している。 その中からパイプがまっすぐ伸びているが、湧水を引いて利用しているのだろう。
この湧き水を50ml、採水するのである。 右のようなビンに採られる。 その分析データは随時記録されていき、異変がないか厳しく看視されているのである。
その分析作業を手伝っている。 気の抜けない緊張した作業であるがとても楽しくやっている。
その作業内容については後日詳しく書いてみようとおもう。 こうした有意義な仕事に関われることがとてもありがたく、嬉しい。




| 竹井 章 | 沖縄/宮古島 | 00:00 | comments(0) | - |
山本周五郎のこと
山本周五郎山本周五郎 浦安にて

 若いときは全く関心も興味も湧かなかったが、ある年齢になると読める本がある。 
ぼくにとって山本周五郎がそうだ。
若いときはジイドやヘッセ、ロマン・ローランといった作家には傾倒したが、山本周五郎は大衆時代小説家という認識しかなかった。 
恥ずかしいがそうだった。

 山本周五郎の作品を読むきっかけは、かれの『小説日本婦女記』を知人に進められて読んでからだった。 
その知人は失われていく婦女の生活姿勢をこの本から啓発されたという。 
読んでみると、これは女性よりむしろわれわれ男性が読んだほうがいいなぁ、という感想がわいた。 
久し振りにこころ揺さぶられた名作である。

 山本周五郎の作品は、時代のなかにあって時代をこえて連綿と流れる深い思いやりや美しい情念
といった人間のこころのありようを、見つめることができる作品が多い。
なんども読み返しているじぶんがいる。



「さぶ」「雨あがる」「青べか物語」「赤ひげ診療たん」


 社会的に弱者といわれる長屋の住人たちの物語りもかれは多く書いている。
強者とか英雄とよばれる人間については興味がなかったかれの、人間的な視点にとても惹かれる。
そして、かれの作品は映画やテレビで多く取り上げられている。
黒澤明は、その人間味溢れる作品を映像作品として完成させている。『椿三十郎』、『どですかでん』、なかでも『赤ひげ』は秀逸であろう。
そして最近ではかれの弟子小泉尭史が監督した『雨あがる』がある。

 人間の生きようとしてほんとうに美しいものはなにか。 多くのことを教えてもらった。 
山本周五郎は偉大な作家である。


 
 
| 竹井 章 | 沖縄/宮古島 | 00:00 | comments(0) | - |
友利幸夫 陶展
友利幸夫 陶展友利幸夫さんと彼の作品

 東京農大の研究所に、高知大学の人文系の研究者が3名来訪された。
研究所のレクチャーのあと、中西先生の随行をして、
高知大学の先生方と保良ガーや友利のあまガー・盛加(むいか)ガーといった湧水や川満のマングローブを視察。
そして、例によって夜はオトーリがまわった。 3軒目のお店でひとりの青年を囲んだ人たちと合流。 
宮古ではよくあるパターンで、やあ、やあと握手から始まってグループはひとつになっていく。 
そこで逢ったのが、友利幸夫さん。

 かれは、城辺の福里出身の備前焼きの作家なのだ。 はるか南の島から岡山の備前市で焼き物を焼いている。 
そしてぼくは岡山の倉敷から宮古に木を植えにきたアイターン者。 不思議な縁である。

 話していてとても好人物であることに気付いた。 平良のギャラリーでかれの作品展をしていると聞いたので、出かけた。
作品はまさにその人そのものである。 アッタカイのだ。 
ものを創るひとはその作品をみれば分かるものだ。 いいアジを出しているのだ。

 備前焼きはウワグスリをかけない素朴な風合いをしている。 朴然としていてなんとも言えず、いいのだ。
はじめて逢った青年だが、とても好感がもてたのは同郷というよりむしろそのヒトガラだろう。

 備前の深い山間にある「閑谷(しずたに)学校」の史跡が脳裏に浮かんだ。 いまは紅葉が美しいころだろうか。 
あのカイノキは黄金色に紅葉しているのだろうか。 ほんのりとした郷愁の風が吹き抜けていった。


 
| 竹井 章 | 沖縄/宮古島 | 00:00 | comments(0) | - |
東京農大の宮古亜熱帯農業研修センター
東京農大 建物東京農大 表札

 言うまでもないが、宮古島には大学がない。 しかし、本土の大学の出先の機関がひとつだけある。
東京農業大学の宮古亜熱帯農業研修センターである。

 城辺の浦底(うらぞこ)海岸の上の一周道路からすこし入ったところにあるモダンな建物が、そうである。
宮古の地下水の保全に力を入れている研究所である。
 
 宮古はご存知のように隆起石灰岩でできている。その下には粘性の高い島尻泥岩層がある。 
スポンジのように空隙の多い石灰岩に雨水は流れ込み、その下の泥岩層は浸透性が悪く地下水が泥岩層の上に滞水する。 
それを堰き止めて地下ダムがある。
その地下ダムによって、宮古の農業は干ばつ禍から開放されたのだ。

 その地下ダムの上には集落がある。 その集落から垂れ流される生活廃水や人糞はそのまま地下に浸透していく。
また、牛舎や豚舎からの家畜の糞尿も大部分が地下に浸透していっている。
自らの水がめの上からそうした汚水を垂れ流しているのである。 これではいつか大変なことになるのでは、そんな危惧が湧いてくる。

 この東京農大の研修センターに中西康博先生がいる。 その彼が実験室の臨時職を紹介してくれた。
それで今週から、道路の交通誘導の仕事から解放されて同センターの実験室に通っている。
中西先生は、宮古で尊敬するひとりである。 かれのテーマは「水」である。 
宮古島の各地点の地下水の分析を定期的にしていて、ぼくはその試験のお手伝いをしていくのだが、とてもおもしろいのだ。
いまは実験室の先輩女史に、分析機械の操作法や試験のやり方を教わりながらの見習いであるが、とてもおもしろいのだ。
宮古島の水以外に、石垣島や喜界島(鹿児島県)の地下水の分析も定期的に行っている。
これから折にふれて、その生活内容を書いていきたい。 

 ぼくのテーマは「みどり」である。 その根幹の「水」について勉強できるのだから、嬉しくてたまらない。 
またこうした機会を与えてくれた中西先生にこころから感謝している。


| 竹井 章 | 沖縄/宮古島 | 00:00 | comments(0) | - |
東平安名崎、国の史跡名勝天然記念物に指定
東平安名崎

 ほぼ三角形のかたちをしたこの島の東端に2キロほど突出した岬がある。 東平安名崎(ひがしへんなざき)である。

 この東平安名崎は、いままで週間読売主催の日本観光地百選読者コンクール;日本百景(1980年)や、
日本公園緑地協会公募の「日本の都市公園百選」(95年)などに選ばれているが、今回国の「名勝」に選ばれた。 というニュースがきもちいい。

 宮古では、「下地島の通り池」がことしの7月に名勝、天然記念物に重複していされているから、今回の指定で2箇所目となった。

 東平安名崎は、琉球石灰岩のカルスト地形に固有の海岸性植物群落が展開する独自の自然環境とともに、島に特有の伝承をもつ美しい景勝地である。

 通年の強風により、高木は育たず亜熱帯地方の風衝地に特有の植物群落が見られる。
とりわけ、テンノウメ(バラ科)群落の分布面積は他に類例を見ないほど大規模である。

テンノウメ
テンノウメ (バラ科)
絶滅危惧種でもあるバラ科の匍匐性低木。 海岸の岩の上を覆い尽くすように生えている。
テンノウメは「天の梅」だが、「天皇梅」(テンノウバイ)ともいわれる。
花の径は10ミリ足らず、葉の形から「イソザンショウ」とも呼ばれる。 と「沖縄植物図鑑」にある。


 時間があればよく東平安名崎に足をはこんでいる。 その漠々たる大洋が眼前にひろがるさまを見ると、気分がじつに爽快になるのだ。
ことに、旅行者がいない早朝は格別である。 ひとり海洋にあがる朝日を拝するときなどその感動は筆舌に及ばない。 
東平安名崎がまたひとつ有名になった。 あまり有名になって欲しくないともおもう、複雑なきもちがある。    


| 竹井 章 | 沖縄/宮古島 | 00:00 | comments(0) | - |
宮古の産業まつり
産業まつりの露店 1産業まつりの露店 2

 恒例の「宮古の産業まつり」が開かれた。 今回で29回というから歴史のあるイベントである。 場所は、上野のドイツ文化村。
まつりでは、県産品展示即売会、サトウキビに関する生産加工品および奨励品種展、研究開発・技術開発事業展、宮古の織物展、
宮古の織物ファッションショー、Tシャツデザインコンテスト、みゃーくの味郷土料理フェスタ、ロボット展などなど。

 産業まつりは、宮古圏域の景気の維持・拡大を図るため、
新しい産業創出への研究開発・技術開発展や地域特性を生かした新たな産業に取り組む企業などを紹介、
伝統工芸や地場産業の育成・振興を目指し、宮古圏域の新たな魅力を創出することが狙い。 

 あいにくの空模様で雨が一時降るなか、多くの来場者があった。
ぼくは、駐車場の誘導警備で一日中立ちっぱなし。 駐車場に入れないお客が多かった。
わき道の無断路上駐車を勝手に教えてあげたりした。 
パトカーが巡視に回っていたが、お巡りさんも見てみぬふり。 そんなところがじつにミヤコチックなのだ。

 伊志嶺市長が、奥さんの運転する軽四で来られる。 ほのぼのとした光景だった。


| 竹井 章 | 沖縄/宮古島 | 00:00 | comments(0) | - |
城辺グリーン・ツーリズム 「さるかの会」 の打ち上げ(11月例会)
グリーンツーリズムの面々

 毎月17日は、城辺グリーンツーリズム 「さるかの会」 の例会である。 例会の模様は以前にもブログに書いてきた。
いつもの例会は事務局長の松原彦文・敬子さん宅で開かれているのだが、今月は人数も多いことから、
また今月の例会の性格から友利の集落センターで開かれた。
さきの大阪の高校(大阪府立大冠(おおかんむり)高等学校)の修学旅行生280名のはじめての受け入れを無事終えての集まりである。
上の写真は、受け入れ農家の面々である。 手ぶれで見難いがご容赦願いたい。 目を細めて見ていただくと少しはハッキリするのだが。 
無事やり遂げた充実感に満ちた面々である。 そして成功裏の立役者は何といっても「お母ちゃんのパワー」である。


グリーンツーリズムのワークショップ

 まず、今回のはじめての受け入れで、嬉しかったこと・良かったこと・反省すべきこと・改善すべきこと等を書き出すワークショップを行った。
なれない方々もいたが、研修を受けてきたひとたちがリードしていった。
たいへん素直で、玄関の靴をきちんと整理してくれて気持ちがよかったこと。
食事もいっぱい食べて、残さずたいらげてくれて嬉しかったこと。
風呂も仲良く2人ずつはいって(男子生徒の場合)楽しそうだったこと。
いっぱい若いエネルギーをもらったこと。
1泊2日の短期間だったのにバスで帰る彼らを見送ってウルウルとなったこと。
など、などいっぱい出た。 
各支部ごとに出された多くの喜びと今後の課題がつぎの受け入れのエネルギーにつながっていくのだろう。

(注)演壇に「祝 敬老会」とかかっているが、事前に行われた敬老会の掲示で、今会には関係はない。 紛らわしいが念のため。


グリーンツーリズムの懇親会

 さあ、懇親会である。 
「さるかの会」は5つの支部がある。 
福嶺(ふくみね)支部・城辺(ぐすくべ)支部・友利(ともり)支部・下北(しもきた)支部・西城(せいじょう)支部の5つである。 
各支部ごとにテーブルを囲んだ。 ナベが美味い。 ビールが美味い。 泡盛が美味い。 そして何よりみんなの顔が美味い。
ここは友利(ともり)支部のテーブル。 正面の茫然自失のふうで空ろな目をした若者は、松川正明さん。 
旧城辺町の企画振興課で松原彦文係長のしたでグリーンツーリズムの立ち上げに尽力した好青年だ。 
いまは宮古島本庁(旧平良支庁)で税の徴収対策で忙殺されている。 らしい。
その横の恰幅のいいご婦人が、われらが事務局長、松原敬子さんである。 今日の会費がひとり千円とは、さずが肝っ玉事務局長である。
左のナベ奉行は、友利よしこさん。 気配りのいいひとである。
うしろで、帽子をかぶって挨拶しているかたが、今回の受け入れに陰で尽力してくれた 「宮古島海宝館」 の幸地(こうち)和夫館長。 熱い男である。


グリーンツーリズムの仲間さんの挨拶

 それぞれの尽力された方々が挨拶をされた。 
上の写真で挨拶しているのが福嶺(ふくみね)支部長の仲間寛安さん。三線(さんしん)の師匠である。 
彼とはグリーンツーリズムの研究会のとき、いつも隣にいて色々と教えてくれたアグ(兄弟)である。 
 その右の女性は友利の支部長の西原昌枝さん。 
ご主人とともに民宿やアパートの経営、ハウス栽培と多角的な経営手腕をもったスーパーウーマンなのだ。 
そしてスローフードの研究家でもある。
 仲間さんの左の女性は、下北支部長の野崎幸子さん。 寡黙だがやはりスーパーウーマン。 
ハーブの栽培と加工品の製造をやられている。 彼女もまた宮古の食材を使った料理に熱心なかたである。 ご主人が本会の会長さんである。
そして、その左。 下地紀子さん。 「さるかの会」の金庫番である。 ご主人一雄さんが城辺支部長である。
 「さるかの会」はいろんな力をもった人材の宝庫である。 ともに数年前から研究会をつづけ「さるかの会」のモトイを担ってきたかたがたである。


グリーンツーリズムの敬子さんの挨拶


 最後に、事務局長である。 松原敬子さん。 
彼女のさまざまな雑務処理には頭がさがる。 ごらんのごとくパワーのオーラに包まれているご婦人である。 
しかし、人知れずのご尽力、ほんとうにご苦労さまでした。

 第1回の都会の高校生を受け入れ、無事に対応できたことは大きな実績であり、自信である。
ここはご存知宮古島。 そして知るひとぞ知る宮古の文化財オトーリ。 
さらなる発展を祈念して・・・とのオトーリがつぎからつぎに回るのである。 さらにさらに回るのだ。 とめどなく回るのである。
今夜はビールとオトーリの泡盛の二種混合で、自信をなくしていく自分がなさけない。
下戸にはちとつらいものがあるが、やはり喜びの舞酒は美味いのだ。  ウッ!。


| 竹井 章 | 沖縄/宮古島 | 00:00 | comments(0) | - |
「平成の大津波」、襲来か
宮古近海の地震の記事石垣島 大浜の津波石

 こんな気になる記事が地元紙「宮古新報」にあった。 
地震といえば津波、津波といえば「明和の大津波」が宮古では特筆であろう。

 いまから235年まえ、1771年(明和8年)4月24日午前8時ごろ、八重山・宮古島全域を襲った大津波があった。
低平なサンゴ礁の島々は3回も繰り返した大波に蹂躙(じゅうりん)された。 
未曾有の大惨害「明和の大津波」である。

 地震の規模はM7.4(参考までに関東大震災はM7.8)、震源地は石垣島の南南東40キロという近海であった。

 災害は石垣島の東面と南面で激甚を極め、宮良村で海抜85.4メートル、白保村で60メートル、大浜村で44.2メートルの波高を記録し、島の4ヵ所で波が横断した。
石垣島では真栄里・大浜・宮良・白保を含む八村が全壊し、石垣島を含む八重山全域で死者・行方不明者は9,393人、宮古全域で2,548人という未曾有の大惨害であった。

 右上の写真は、石垣島・大浜の津波石である。 こんな巨石が海から陸に投げ上げられたのだ。 想像を絶する。


伊良部島 佐和田の浜

 その「明和の大津波」で、宮古では友利・砂川・新里・宮国の四か村が海岸部の集落であったことから、人家が流された。
いまそれぞれの集落跡には、「元島(もとじま)跡」という標柱が立っている。
被災した集落は、高台地に新しい集落をつくったのだ。 ここ友利もいまは浜からすこし上がった高台に集落が出来た。
しかし、30世帯ほどは、浜辺の近くつまりインギャーの浜近くにいまだ住んでいる。

 2〜300年の周期で巨大な津波が発生するといわれて久しい。
地震が頻発すると、もしやという不安が起こる。 いまから、被災に対する対策を考えておきたい。 
といっても、警報がでればより内陸部の高台に逃げるしかないが、標高の低いこの島でどれだけの効果があるのかは、わからない。

 上の写真は、女子十二楽坊のプロモーション・ビデオが撮影された伊良部島の「佐和田の浜」である。 
「日本の渚100選」にも選ばれた遠浅の美しい浜である。 この点在する群石が明和の大津波の置き土産なのだ。


 
| 竹井 章 | 沖縄/宮古島 | 00:00 | comments(0) | - |
彼らの残したもの
松原邸のドラゴンフルーツ

 大阪の高校生の修学旅行生が帰っていった。 2日間で280名の生徒が城辺の31農家に泊まったのだ。 
宮古島ではじめての快挙だ。 
それが宮古島で農業・畜産が主たる産業である城辺(ぐすくべ)に起こったことは特筆すべきものがある。 
沖縄でもっとも「貧しい」といわれている城辺でだ。

 大阪の生徒達はその容姿たるや、やはり都会のそれであった。 
ジーパン姿の生徒もいたが、化粧はもちろんハイヒールにピアス、ドレスワンピースという、高校生のイメージからほど遠い女生徒もいた。

 そんな彼女達は、その容姿とは違って(偏見だね)実に素直だった、と受け入れた農家のかたは言う。
学校の先生にも、もちろん親にも話したことがない深いこころの問題をその農婦人に、夜のユンタク(語らい)のときに語ったそうだ。
そんな「開く」気持ちにさせる何かが、確かにここにはあるのだろう。

 第1回の修学旅行生の受け入れで、確かな成果をあげたのは事実だ。 それと同時にさまざまな課題もうまれたことだろう。 
それでいいのだ。 それで更に充実した受け入れ対応が出来るのだから。

 写真は受け入れ農家のひとつ、友利の松原山彦文・敬子さん宅の農場に彼らが残したドラゴンフルーツの支柱である。 
根元にはドラゴンフルーツのかわいい苗木が植えられている。 
農業の体験学習の一環として、穴を掘り支柱を立てたのだ。 
そしてその支柱には、彼らの思い出のことばが書かれている。 若者らしい筆跡である。

 数年したら、彼らの立てた支柱にドラゴンフルーツのたわわな実りが見られることだろう。 
そして彼らの残した思いは、いつまでもその支柱から発せられ続けられるのだ。

 白く塗られた支柱が、整然とそして屹然と立っている。



| 竹井 章 | 沖縄/宮古島 | 00:00 | comments(0) | - |
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